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こんにちは。
採用担当の川嶋です。^^

「20歳の顔は自然からの贈り物、30歳からの顔はあなたの人生。でも、50歳の顔はあなたの功績」

そう言ったのはトップブランドのひとつ、シャネルの創始者であるココ・シャネルです。

年齢を追うごとに経験が顔に出てきます。

今日、8月19日はココ・シャネルの誕生日。

本名はガブリエル・ボヌール・シャネル。
1883年にフランスに生まれました。

12歳になる前に母を亡くし、父に捨てられたシャネルは孤児院や修道院で育ちました。
後に歌手を目指してキャバレーで歌うようになり、この時に歌っていた歌の歌詞やタイトルから「ココ」という愛称で呼ばれるように。

オーディションに落ち続けて歌手の夢を断念したシャネルは、当時交際していた将校とともにパリ郊外へ移り、そこで暇つぶしに作っていた帽子のデザインが認められて、恋人の将校の援助でパリに帽子のアトリエを開きます。
翌年には帽子専門店をオープン。将校と別れ、イギリス人実業家の青年と交際がスタート。

3年後には2号店をオープン。翌年1914年に第一次世界大戦が始まるも、更にその次の年には王族や貴族の集まるリゾート地、ビアリッツにオートクチュール店もオープン。
戦争は1918年に終わりましたが、この戦争の最中にコレクションを発表して大成功を収めたそうで、想像がつきませんが、ビアリッツという土地柄があったようです。
スペインに近くドイツから一番離れていて、戦中でも富裕層が集まってきていたのだとか。

終戦から3年後の1921年。本店を拡張して、知り合った調香師によってシャネル初の香水「No.5」と「No.22」が誕生します。
シャネルの「No.5」と言えば、女優マリリン・モンローが愛用していたことでも有名ですね。

当時、フランスには「サロン」と言って、さまざまな芸術の才能を持った人たちが集まる場所がありました。
劇作家ジョン・コクトー、画家パブロ・ピカソ、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集まるサロンの主催者と出会い、シャネルは画家マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらいますが、気に入らずに返したそうです。
はっきりした性格のようですね。

香水に関しては別の会社を立ち上げてブルジョワ社の取締役を務めていた兄弟に経営を引き渡し、自身は株の10%だけを手元に残して一切手を引いたそうです。
この10%の株のおかげで、後に一時引退した時も生活に困らなかったといいます。
さすがトップブランド。
ちなみにこの香水部門、兄弟はユダヤ人であったため、第二次世界大戦中ドイツに没収されないよう非ユダヤ人に移譲されました。

その第二次世界大戦が勃発した1939年。
シャネルは4000人規模の大企業となっていましたが、苛烈な労働条件に労働者側が反発。彼らの考えを受け入れられなかったシャネルは対立し、一部店舗を残してすべてを閉鎖。
一時引退することになります。

大戦中はドイツの占領下となったフランス国民はあらゆるものを略奪され、困窮を極めていました。
ところがシャネルはドイツの親衛隊少将と懇意になり、さらにドイツの秘密警察(ゲシュタポ)の高官の愛人となって不自由なく暮らしていました。
この頃にシャネルは兄弟がユダヤ人であることを利用して香水部門を取り戻そうとしますが、すでに非ユダヤ人へと渡った後でした。
彼女は反ユダヤ主義者であったそうですが、それならなぜ最初にユダヤ人の兄弟と契約をしたのか疑問です。
ビジネスは別、ということなのでしょうか。
しかもドイツの諜報機関からコードネームを与えられた工作員であったというから驚きです。
これにより、1944年のフランス解放後、即座に逮捕されてフランス中から非難を浴びることとなりました。

戦前から交流のあったイギリス首相チャーチルにより釈放されて、中立国のスイスへ亡命。
その亡命生活を支えたのが、例の香水部門からの収入でした。
ユダヤ人兄弟との訴訟などを経て、シャネルは戦時中に受け取れなかった「No.5」の利益配分と、将来へ向けての売り上げの2%を受け取ることになりました。
この香水「No.5」は世界中で売れているわけですから、たとえ2%といえど、生活に困るわけがありませんね。

1954年、スイスからパリへ戻ったシャネルは、これも香水部門からの収入を元にファッション界へ復帰します。
でも、「売国奴」と蔑まれていた当時はブランドに対するヨーロッパの反応も辛辣でした。
ところがアメリカだけは、戦後20年近くを経てシャネルやドイツへ対する嫌悪感が薄まっていた為か、ヒットしました。

「シャネルスーツ」と呼ばれる、テープ状の縁飾りがある襟なしの前開きジャケットにタイトスカートを合わせたウールのスーツを発表し、さらにモンローによって「No.5」がブームに。

死後、大戦中のフランスへの裏切り行為のために高級墓地への埋葬を拒否され、亡命していたスイスの墓地に埋葬されました。

波乱万丈ですが、狡猾というかその時にどう動けば不自由がないかを判断できる人だったのかもしれません。

晩年は孤独を恐れて不眠症などに悩まされたシャネル。モルヒネが欠かせなかったそうです。
どんなに自由で恐れ知らずのようでも、孤独は不安なものだったんですね。
そんな彼女の顔は、彼女自身にはどう映っていたのでしょうか。

冒頭の言葉のように、ファッションや恋愛に関する多くの名言を残しています。
興味がある方は調べてみては。(ㆁᴗㆁ✿)