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遠山の金さん

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こんにちは。
採用担当の川嶋です。^^

最近はテレビで時代劇を放映することも少なくなってきたので、ご存知の方も少ないかもしれません。
「遠山の金さん」というのは、昔のテレビドラマです。
北町奉行所の遠山景元が遊び人の「金さん」として、悪人を懲らしめるいわゆる勧善懲悪の時代劇です。
最後には必ず正体を明かして裁きを下す場面があります。
遠山の金さんといえば、肩に入った桜吹雪の入れ墨が有名ですが、モデルとなった遠山金四郎景元に関しては諸説あるようです。
左右の腕どちらかのみ、花びらが数枚だけ、全身くまなく、そもそも入れ墨をしていなかったという説も。

江戸時代には「武家彫」と「博徒彫」があったようで、武家の間でも入れ墨をすることが流行っていた時期があったようです。
ただし、前科者であることを示す入れ墨を隠すために、さらに派手な入れ墨をする者もあり、幕府は厳重に取り締まっていました。しかし、あまり効果はなく、武士階級にも広まっていきました。
無事階級の間では入れ墨のある体を斬ることに、呪術性への恐れがあったという説があり、浮世絵などから題材を取った図案に、呪術的な何かを感じていたようです。
確かに、仏教の神様などを斬りつけたら何かの罰が当たりそうな気はします。

遠山景元が、北町奉行の役職に就いたのは、ちょうど天保の改革の頃でした。
景元は町人を必要以上に脅かすような法令の実施に反対し、当時の老中である水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立しました。
当時の江戸っ子の娯楽であった寄席に関して、水野は全般撤廃を主張するのに対し、景元は芸人の失業や町人の娯楽が消えることを恐れ反対。
結果的に、大幅に軽減はされたものの寄席は一部を残して撤廃。興業も教育物のみ、と限定されました。
芝居小屋の廃止に関しても、景元は移転に留め、関係者がこれに感謝して景元を讃える「遠山の金さん」ものを上演しました。
景元の死後、講談・歌舞伎で物語の基本パターンが出来上がり、昭和に入ってから時代小説「遠山の金さん」シリーズとして広まりました。

実際に名奉行だったのかどうか、は史実に基づいているようです。
将軍が一代に一度行った裁判の上覧において、景元は第12代将軍徳川家慶に裁判ぶりを評価され、模範と讃えられたとか。
それが後世まで残り、「遠山の金さん」としてお茶の間でも親しまれるようになったんですね。
今日はそんな遠山の金さんこと遠山景元が北町奉行に就いた日だそうです。
たまには時代劇も見てみると面白く感じるかもしれませんよ。(ㆁᴗㆁ✿)