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こんにちは。
採用担当の川嶋です。^^
今日は8月1日。
7月があっという間に終わってしまいました…。
8月1日は「花火の日」です。
・戦中に禁止されていた花火が、戦後初めて解禁されたのが1948年の8月1日だったこと。
・東京の花火問屋で大規模な爆発事故が起こったのが1955年8月1日であること。
・世界一ともいわれる花火大会、「教祖祭PL花火芸術」が開催されるのが毎年8月1日であること。
この3つが制定の理由です。
「教祖祭PL花火芸術」は、大阪のパーフェクトリバティー(PL)教団の敷地内で式典の後に世界の平和を祈念して開催されるものです。
花火の打ち上げは1953年から始まり、約1万発を打ち上げます。
日本での花火の始まりは、実際よくわかっていないそうです。
江戸より前、平安の時代には当時交易のあった明の使者が花火と思われるものを披露したとか、戦国時代も唐人と呼ばれる外国人による花火の記録があるようです。
戦国時代にはすでに鉄砲が伝来していて、火薬も自国で生産するようになったので、この辺りから花火の生産も始まったという説もあるようです。
江戸時代に入ると戦もなくなり、火薬屋が花火を扱うようになります。
現在のコンビニやスーパーでも売られている手持ち花火のようないわゆる「玩具花火」が主だったようで、すでに「鼠花火」が存在したようです。
打ち上げ花火といえば、「たまや」「かぎや」の呼びかけが有名ですが、これは1659年、現在の奈良県から江戸に出てきた弥兵衛がおもちゃ花火を売り出したのが「鍵屋」の最初です。
最初こそ玩具花火ですが、だんだんと大型花火の研究をし、1717年、水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げます。
それから1733年。現在の近畿地方を中心に飢饉が起こり、江戸では疫病が流行って多数の死者を出しました。
世の中が暗く沈んでいる中、時の将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈念して、隅田川で水神祭を催し、20発前後の花火を披露したそうです。
これが現在の隅田川花火大会の起源と言われています。
そしてもう一つの「玉屋」。
これは「鍵屋」の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをし、市兵衛と改名して店を構えたのが始まりで、この二大花火師は両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ちました。
当時の歌や川柳を見ると玉屋の方が人気があったようですが、1843年に失火し、店だけではなく町の広範囲を焼いてしまいます。
当時失火は重罪で、玉屋は取り潰され、市兵衛は江戸を追放されました。
現在は色とりどりの華やかな花火ですが、浮世絵を見ると江戸の花火は単色、橙色の濃淡のみで表現されていたようです。
明治に入って海外から多くの薬品が輸入されるようになってから、花火に色彩が加わりました。
それまで何の規制もなかった花火の製造や打ち上げに、薬品を使用することによって化学知識が必要となり、花火師は現在のように専門知識をもった専業となっていきます。
大正でマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉を使用するようになり、現在の花火へと大きく変化し発展していきます。
その後、戦争が始まり、花火師たちも花火ではなく発煙筒などの製造を余儀なくされます。
敗戦後、GHQにより火薬の製造が禁じられますが、花火製造業者の説得により、1948年、在庫花火を消費するという名目で許可を受け、8月1日、両国川開きの花火大会が復活しました。
今年もすでにあちこちで花火大会が開催されています。
天気が不安定なのが心配なところではありますが、見物に行かれる方はマナーを守って楽しんでください。
ちなみに、8月1日~7日はスターウィークとして「星空に親しむ週間」とされています。
花火大会のない日は、星空を見上げてみてはいかがでしょうか。(✿´ ꒳ ` )