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こんにちは。
採用担当の川嶋です。^^
本能寺の変で織田信長が自害した後、織田家の後継者と領地の再配分を決めるために尾張(愛知県)の清州城で織田家の家臣によって会議が開かれたのが、ちょうど1582年の今日です。
2013年に「清須会議」として映画が公開されているので見た方もいるのでは。
ちなみに、現在の暦で7月16日、当時は旧暦なので6月27日です。
この会議に集まった家臣は4人。
柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興。
信長の父の代から織田家に仕えていた柴田勝家は、この清州会議の後に信長の妹であるお市を妻に迎えています。
そのお市の方の娘が豊臣秀吉の側室である淀君、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の妻、お江(ごう)と初の3姉妹です。
3人ともお市の方の最初の夫、淺井長政との子で、勝家との子はいなかったようです。
その翌年、勝家は秀吉と対立し戦いに敗れたため、お市の方とともに自害しています。
この清州会議で、秀吉は信長の孫である当時まだ3歳の三法師(織田秀信)を跡継ぎとして擁立し、三法師の叔父である信孝と信雄が後見人となり、4人の家臣が補佐する体制を決めました。
会議を境に秀吉と勝家の影響力は逆転し、織田家内の勢力が変わりました。
どんどん権力を手にしようとする秀吉に対立した勝家は、会議の翌年の1583年賤ヶ岳の戦いに出兵するもこれに敗れ自害。
これにより、織田家の実権は実質的に秀吉の手に渡ることになります。
4年後、当時の天皇から「豊臣」姓を与えられるとともに太政大臣に任命され、秀吉の天下統一が始まります。
本能寺で織田信長を自害へ追いやった謀反人明智光秀。その光秀を討ち取った秀吉。
秀吉の出自は足軽や農民など諸説ありますが、いずれにしろ低い地位からその知略で天下人にまで上り詰めた人物です。
清州会議も本来なら出席できるはずのない地位でしたが、光秀を討ち取った功績があり、参加できました。
そもそも会議に参加できなければ、秀吉の未来は大きく変わっていたかもしれません。
秀吉の策略はどこから始まっていたのでしょうか。(ㆁᴗㆁ✿)