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こんにちは。
採用担当の川嶋です。^^
今日、12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日。
子どもの頃は、この日に合わせて忠臣蔵のドラマが2夜連続とかで放送されてました。
懐かしい。
今は缶コーヒーのCMの題材になってますね。
主たる討ち入りそのものより、その場に居合わせてしまった吉良家の使用人に焦点を置いているのが面白いです。
記憶に残っている最後の「忠臣蔵」のドラマは大石内蔵助を里見浩太郎さんが演じてました。
ちなみに内蔵助の息子、主税(ちから)役は若かりし頃の坂上忍さん。
この「忠臣蔵」ですが、実際の史実上の名称は「赤穂事件」といいます。
「忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎における演目としての名称「仮名手本忠臣蔵」からきています。
講談では「赤穂義士伝」となり、作品によって名称が違います。
忠臣蔵とは
江戸時代、元禄年間に江戸城松之大廊下で吉良上野介(きら こうずけのすけ)を浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が斬りつけたことで切腹を命じられたことが発端となり、主君の仇を討つため、赤穂藩の家老である大石内蔵助を含む47名が、吉良邸に討ち入り、この首を取った事件が題材となっています。
浅野が吉良に斬りかかった理由は史実では不明となっていますが、ドラマなどでは、将軍から仰せつかった朝廷の接待において、指南役の吉良が補佐役の浅野にたびたび嘘を伝えては恥をかかせたとして描かれていることが多いように思います。
これは、尾張藩士の朝日重章が記した『鸚鵡籠中記』が元になっているとみられています。
刃傷沙汰の直後、取り調べの中で浅野は詳細は語っていないものの、「私的な遺恨」があり「上野介を討ち果たそうとした」とあるので、何かしらの恨みはあったようです。
我慢できずに斬りつけ、「討ち損じたのは残念」とまで言っているのでよほど腹に据えかねることがあったのでしょう。
当時の江戸城内、つまり殿中での刃傷は死罪と決まっていました。
どんな理由があってもです。
浅野はその日に切腹を命じられました。
赤穂藩は取り潰し。
当時の連絡は早駕籠(はやかご)を使っても江戸から赤穂までは通常一週間かかります。
ですが使者たちは昼夜連続で駆けて4日半ほどで到着したとか。
一度目の早駕籠は刃傷沙汰のみを伝え、二度目の早駕籠で浅野の切腹と藩の取り潰しが伝えられました。
藩が取り潰され仕えるべき主君を持たない浪士となった赤穂藩士たちは、2年後の12月14日、吉良邸への討ち入りを果たします。
それにしても、「忠臣」はわかるとして、「蔵」は?
内蔵助の蔵?
調べてみましたが諸説あるようで、これも定かではないようです。
年末といえば忠臣蔵でしたが、年々廃れていっているようでちょっと寂しくも感じます。
時代劇も見てみると面白いですよ。(ㆁᴗㆁ✿)